cotomotoca 繊細な森の中へ

日々、ものを作り感覚に触れる『うつくしさ』に思うことを綴っています。

陶芸という行為に魅了されていること

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私が制作する時に一番気にかけていること、

それは『土を殺さない』ということ。
これは観念ではなくて、事実 “土は死んでしまう” のです。

 

だから、私は常に土に従うことになる。

それが一番心地がいいし、頭で考えていたことをしようとしても、

だいたい土がわがままを言い出す・・・

そして、その『わがまま』の方がずっと面白いことの方が多いので、

私がしようとしていたことを完全に横においておくことになる。

 

でも、土の見せてくるものに納得がいかなくて、
『私は・・・』ということを土に対して、「もうちょっとこう」って手を出すと、

案の定、土は機嫌を損ねてまんまと恥ずかしい姿を私に見せつけてくるのです。

 

こうした土とのやりとりを私は楽しみに思っていて、
その楽しみを継続させるために私は器用になることから

逃げていたいと願っている。

今までやり続けてきた中でコツをつかみ要領を得てきたことはたくさんあるけど、

土のわがままな言い分を聞いている関係性でいたいと思うのです。

 

 

そして、もうひとつ大事にしていること、

土を土らしくあるように制作すること。

 

粘土という素材をいかにして然もそこらへんにあるような『土』に

見せるかということ。
『土』は焼かれて陶器となるわけだけど、
『土』の魂をそこにとどめておきたいと思うのです。

 

ただ、意図された形、人工物としての在り方、

そこも陶芸の大事な要素であって、
コンクリートの隙間から草花が生えてくるように、

朽ちた人工物に苔が生し、土へと戻っていくように、

そこが陶芸という行為の魅力なんじゃないかと思う。

 

 

土が見せてくれる世界にいつまでも魅了されていたい。

 

『私』という存在の手がそこに入ることは、邪魔しない程度のことで、

ミニマムなキッカケによって、今まで見たことのない世界を

覗くことが出来るのだと信じている。

そして、『群』という見せ方は、見るものを内側へと引きつけ、

拡散してくイマジネーションに委ねる共同作業のようで、

その世界へと

 

冒険に出かけてみたくなるのです。

 

 

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